未来のために何ができる?が見つかるメディア
多様な物差しとノイズを認め合える社会へ~日本財団18歳意識調査アンケートより~
日本財団は2026年2月、「国や社会に対する意識」をテーマに78回目の18歳意識調査(外部リンク)を実施しました。日本・アメリカ・イギリス・中国・韓国・インドの6カ国で、各1,000人に自国の現状や将来、自分自身と社会との関わりについて聞いています。有識者に、印象に残った調査結果についてインタビューを通してお考えをお聞きしています。
自分自身に関する10項目のうち、日本は「日々の生活で不安やゆううつを感じる」を除くすべてで6カ国最下位となり、日本の若者の自己肯定感の低さが目立ちました。最も差が開いたのは「困難があっても前向きに回復できると思う」でした。
質問:あなた自身について、以下の項目に同意しますか。(単一回答、各国n=1,000)
※「同意」+「どちらかといえば同意」の回答率

「学校で勉強する意味」に関しては、日本のみ「特にない」の回答が19.3パーセントと突出しています。また、日本の1位は「将来の選択肢が広がる」であり、アメリカ・イギリス・インドの1位「新しい学びや能力を得ることができる」とは異なっていました。
質問:あなたが重視してきた“学校で勉強する意味”を以下から3つまで選択してください。

「人生において大切にしたいこと」については、他国では「家族」が1位で共通していましたが、日本だけが「自身の好きなことややりたいこと・趣味」がトップとなりました。一方で、「セルフケア・寛ぎ」は日本が11.4パーセントで、他国と比べて極端に低くなっています。
質問:あなたの人生において、あなたが大切にしたいと思っていることは何ですか。以下から3つまで選択してください。

これらの結果について、文教大学人間科学部の青山鉄兵(あおやま・てっぺい)先生にお話を聞きました。青山先生は社会教育・青少年教育を専門とし、国立青少年教育振興機構青少年教育研究センター客員研究員、中央教育審議会生涯学習分科会社会教育の在り方に関する特別部会委員、こども家庭審議会こどもの居場所部会委員などを務めています。

自己肯定感は、高ければいいというものでもない
自分自身について尋ねた質問で、他国と比較し日本の若者の自己肯定感の低さが目立ちましたが、この傾向はこれまでも言われてきたことです。成功体験の少なさや自分を好きになれないという側面だけでなく、謙遜する文化の影響も考えられます。
ただし、必ずしも自己肯定感が高ければいいわけではないという議論もありますので、他国に比べて日本の若者が劣っているという話として捉える必要はないと思います。
「必ずしも自己肯定感が高ければいいわけではない」というのは、メタ認知ができるようになることで自己肯定感が下がることもあるからです。ボランティアや職業体験に行くと自己肯定感が一時的に下がる、というデータもあります。
教育実習に行って「自分はこんなにできないのか」と気づくのは、大きな学びの結果でもあるので、自己肯定感の上下を能力の上下として捉えること自体が、実態にそぐわない場合があります。
一方で、「困難があっても前向きに回復できると思う」と回答した割合が低いことについては、日本の社会の中で「失敗の許容度」が下がっていることが影響しているかもしれません。
失敗することが社会に許容されなくなると、挫折を経験したときに、世界が終わってしまったかのような感覚になりやすい。近年では、キャンセルカルチャーをはじめとして、一度トラブルを抱えたら復活しづらくなっているような状況があります。
日本では個人主義的な感覚が希薄であり、同調圧力が強いため、なんらかの失敗をしてもなんとかなる、という感覚を持ちにくいのではないでしょうか。もちろん、他国の状況を見ても、東アジアの中国や韓国では日本以上に学歴社会による競争のプレッシャーが強いという側面もありますし、逆に欧米では集団での規範を重視する日本の教育が評価されることもありますから、必ずしも海外の方が良いと言えるわけではありません。
しかし、失敗の許容度の低さという面からは、価値観の物差しをもっと多様にしていく必要があると思います。人を評価する物差しが学歴や偏差値だけに偏らず、多様な価値観が許容されるべきです。
私は、学校以外の場所でのさまざまな教育活動を(特に青少年を対象とした体験活動や居場所に関する分野を中心に)研究してきましたが、多様な物差しを許容するという意味において、学校以外の場所に居場所や体験の機会が豊富にあることはとても重要です。
一方で、現在は「体験格差」という課題もあり、学校の外で多様な物差しに出会うべきだと言っても、経済状況によってそれが叶わない人たちもいます。同時に、「体験が大事だ」と言いすぎると、親が「うちの子にも体験させなきゃ」と考えて、受験や習い事のように体験が商品化(商業化)され、それに巻き込まれてしまいがちです。
誰もがアクセスしやすい機会が学校以外に豊富にあるべきですが、それが教育的な競争や商業的なものと結びつきすぎることには注意が必要です。
「大人になるエスカレーター」が壊れかけているのに、しがみついている若者が多い
学校で勉強する意味に関する質問において、日本の若者の回答で「特にない」が突出しています。また、他の質問でも「わからない」や「特にない」の回答が日本だけ目立つ結果となっています。
これについてはいろいろな解釈がありえますが、一つは、日本ならではの「大人のなり方」に関わっていると思います。
日本の場合、高度経済成長期以降、学校を卒業したら新卒一括採用で就職するといった雇用システムのもと、学校からそのまま社会人になるという、独自の「大人のなり方」が長い間機能してきました。さらに、日本の会社はいわゆるジョブ型ではなくメンバーシップ型の雇用システムで、終身雇用を前提としてきましたので、将来を自分で選んでいるように見えて、全員が同じ「大人になるエスカレーター」に乗って自動的に大人になっていくような仕組みの社会だったと言うことができます。
そこでは、敷かれたレールにうまく乗っていれば自動的に行き先が決まりますので、人生を自分でつくっていくという感覚は構造的に希薄になりやすいですし、受験の成功や失敗は重視されても、入った後の学校でどんな力を身につけていくのかといったことの意味は見えにくくなります。
昔から日本では、学歴や受験が社会の中で重要視される価値観が浸透していて、学校にうまく適応することが社会的地位に結びつきやすい状態になっています。
高校や大学への進学率の低かった1970年代までは、多くの人にとって、学校は行きたくても行かせてもらえない場所でした。しかし、進学率が上昇し、「学校に行くのがあたりまえ」となると、学校は行きたくても行かせてもらえない場所というより、行きたくないのに行かなければならない場所になっていったということができます(こうした過程で、進学率よりも不登校の方が社会的な課題となっていきました)。
そうすると、学校に行くこと自体がゴールになりやすく、学ぶ意味は見えづらくなります。こうした状況は、就職活動の時に大学で何を学んだかということが企業から評価されづらい、という状況にも見られるように、社会全体に広く共有された価値観になっていると言ってよいでしょう。
学校が、学ぶための場所ではなく、そこにうまく適応したという経験を勝ち取りに行く場所になっているような側面があるのです。「学校で勉強する意味」で、他国が「新しい学びや能力を得ることができる」の割合が高いのに対して、「将来の選択肢が広がる」が1位になっていることも、こうした状況と関連していると言えるでしょう。
一方で、現在では従来の「大人のなり方」の前提は大きく崩れています。
かつての日本型雇用システムでは、終身雇用を前提に企業内教育が充実していましたが、これだけ転職が当たり前になれば、企業が自前で人を育てるメリットは小さくなります。
かつては企業内教育が充実していたからこそ、企業としては何を学んだかを評価しなくても、スペックの高い空っぽのパソコンのような新入社員が来ればそれでよかったし、受験はそのスペックを証明するためのシステムとして機能していました。
しかし中途採用が一般化し即戦力重視になれば、どんな力が身についているかで評価されるようになります。つまり、これまでの前提が崩れ、「大人になるエスカレーター」が機能しづらくなっているということです。
近年では、「大人になるエスカレーター」が全員を運ぶことができなくなったことを皆分かっているはずなのに、いや、むしろそのことを皆がわかっているからこそ、多くの人がエスカレーターにしがみつこうとしているような状況があります。
かつての右肩上がりの時代の学校教育は、社会全体の成長と連動しながら、多くの人の将来を豊かにするための装置として機能していたため、学校に行く意味は見えやすかったと言えます。
しかし、右肩上がりの時代が終わった後は、学校は限られた社会的なパイを取り合うための、勝ち組と負け組を分ける装置のような存在になっています。都心を中心に過熱する中学受験などはその典型でしょう。
私の周りの学生たちも、エスカレーターが壊れつつあることを認識しつつ、売り手市場の就職活動の中では、エスカレーター以外の「大人のなり方」を模索するよりは、むしろ旧来のゲームの中でいかに生き残るかを重視しているようです。そこではこれまで以上に「振り落とされないように」、「失敗しないように」ということが重視されているように見えます。
「鼻くそがほじれる社会」にしたい
「人生において大切にしたいこと」で、日本だけが「自身の好きなことややりたいこと・趣味」を1位に挙げながら、「セルフケア・寛ぎ」は6カ国中最下位でした。こうした背景としては、社会全体も若者本人も、余暇にさえ生産性を求めがちだということがあるのではないかと思います。
ゴロゴロしてスマホを見ていると罪悪感がある。部活でも「オフはオフじゃないぞ(試合のために使え)」と言われたりする。社会が豊かになる中で、労働だけでなく余暇にも価値が置かれるようになりましたが、オフをオフとして過ごすことを良しとしない文化、自由や休息を大事にしづらい文化の中で、余暇もまた頑張るものになってしまっている面があるのかもしれません。
これは、日本人の勤勉さや勤労意欲の表れでもあるでしょうし、かつての経済成長を支えた美徳でもありましたが、逆に有給休暇を権利としてではなく申し訳なさとともに取る感覚のように、「セルフケア」や「寛ぐ」こと自体に価値を見出しづらい状況があるのではないかと思います。
また、日本では学校でも社会でも「自分らしさ」や「個性」が強く求められる一方で、人と合わせることや空気を読むことが人々の価値観として根付いていて、自分が自分らしくあることが認められにくいことも、こうした結果に関連しているのではないかと思います。
最近は社会の潔癖さが増していて、失敗が許されづらい。ちょっと悪いこと、ちょっと危ないこと、ちょっと汚いこと、ちょっとお行儀が悪いこと、ちょっと猥雑なこと…が許容されにくくなっています。ある程度の「ノイズ」を許容して生きる社会の方が、居心地がいいはずです。ルールを守らなくていいわけではありませんが、ルールとうまく付き合う生き方ができるといいと考えています。
若者やユースワークに関わる人と話すとき、私はよく半分本気で「鼻くそがほじれる社会にしたい」と言っています。多少汚くても、ほじりたいならほじればいいし(きっとみんなほじってるし)、そうしたことがゆるやかに許容される社会の方がいいのではないか。
ちょっと危ないことと、本当に危ないこと・やってはいけないことを私たちは区別できるはずです。そうしたノイズを大事にしながらうまくルールと付き合っていくことの方が、言われた通りにすることよりも重要でしょう。何でもルール違反にするのではなく、ノイズとどう付き合っていくか、それが今後の社会における大きなテーマだと思っています。
以上
- ※ 掲載情報は記事作成当時のものとなります。