日本財団ジャーナル

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【オリ・パラ今昔ものがたり】パラリンピックとパラリンピックサポートセンター

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日本財団パラリンピックサポートセンターエントランス内 写真提供:日本財団パラリンピックサポートセンター

執筆:佐野慎輔

江戸の昔、大きな溜池があったという東京・赤坂1丁目。日本財団の所在地である。その日本財団ビル4階、ワンフロアを使って日本財団パラリンピックサポートセンター(通称・パラサポ)がある。

活動コンセプト「i enjoy!」をモチーフにした香取慎吾さん制作の壁画に迎えられてフロアに進むと、ここが共生社会を意識した造りだと実感できる。障害のある人、あるいは高齢者に優しいユニバーサルデザイン。29のパラリンピック競技団体が拠点を構える。ドアも壁もなく、隣の、いや幾つか先の団体の声が聞こえ、何をしているのかすぐ分かる。刺激し合いながら情報が共有されていく。

パラサポは会計処理から国際的な文章の翻訳などの共通業務をバックオフィス機能として提供。弁護士や税理士に相談が可能な窓口を設けるなど、競技団体の担当者たちが業務に専念しやすい環境を整えている。

パラリンピックの成功なければ…

きっかけは2013年9月13日、2020年オリンピック・パラリンピックの東京招致の成功だった。「日本財団としてこうした機会に何ができるか」―笹川陽平(ささかわ・ようへい)会長には前年のロンドン大会の印象が強く残っていた。

「ロンドンではオリンピックに限らず、パラリンピックにも注目が集まり、大変な盛り上がりをみせた。これからはパラリンピックの成功なしに、オリンピックの成功はない」

思いを組織委員会会長に就任することになった森喜朗(もり・よしろう)元首相に告げた。森氏もこれに同調し、話し合う中で協力が決まった。

まず立ち上げたのが、パラリンピック研究会。招致委員会事務総長を務めた小倉和夫元駐フランス大使を理事長に2014年5月に発足し、パラリンピックや障害者スポーツ、選手が置かれている現状の調査から活動を始めた。分かってきたのは日本の多くの競技団体が小規模で、役員の自宅に組織が置かれており、ガバナンスやコンプライアンスとは無縁の状況にある事実。これでは満足な支援は受けられない。組織の体制強化を急がなければならない。折しも、パラリンピックを含む障害者スポーツ事業は厚生労働省から文部科学省に所管が移される(移管は2014年4月)など、政府も対応を変えてきていた。

国際パラリンピック委員会(IPC)などと話し合いを持ち、日本財団の冠を付けてパラサポが発足したのは2015年5月である。IPC理事の山脇康(やまわき・やすし)氏が会長に就任。この年11月の「パラ駅伝2015」に始まる数々の活動は、パラサポの公式ページ(別ウィンドウで開く)を参照されたい。

付け加えるならば、いわゆる社会的弱者と言われる障害のある人や難病、貧困に苦しんでいる方に手を差し伸べる活動を続けている日本財団にとって、パラスポーツもまた応援すべき対象に他ならない。そしてパラリンピックを通して障害のある人、ない人が手を取り合って暮らしていく共生社会の実現は「みんなが、みんなを支える社会」を掲げる日本財団の活動理念に合致していた。

失ったものを数えるな

そも、パラリンピックは一人の医師の活動から始まった。名前をルードウィッヒ・グットマンという。

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「パラリンピックの父」と称されるルードウィッヒ・グットマン博士 ©PHOTO KISHIMOTO

1899年、ドイツ生まれのグットマンは第1次世界大戦後、外科救急病棟でボランティアとして診察、治療を手伝った。そこで脊髄を損傷し下半身麻痺となった患者に出会ったことがきっかけとなり、神経外科医として対麻痺(両下肢麻痺)の研究に打ち込んだ。治療法の開発を続ける彼の人生を変えたのは、アドルフ・ヒトラー率いるナチスの台頭と第2次世界大戦である。

グットマンはユダヤ人。ナチスのユダヤ人迫害を逃れて1939年英国に亡命し、オックスフォード大学に身を寄せ研究を続けた。そんな彼に英国政府が白羽の矢を立てたのが1944年。日本で「欲しがりません、勝つまでは」と耐乏生活が強いられていた頃、英国は第2次世界大戦の戦闘で脊髄を損傷した戦士の治療のための医療機関を創った。ロンドン郊外にあるストーク・マンデビル病院脊髄損傷センター。グットマンはセンター長に就任し、脊髄損傷者治療の先頭に立った。

グットマンは脊髄損傷患者を治療していくうちに、極めて有効な手段としてスポーツに着目していく。麻痺のある下半身の療養ではなく、上半身を鍛えれば体の動きが変わってくる。それにはボールを扱ったりするスポーツが適している。負傷によって失った機能は戻らないが、残った機能は鍛え方次第で変化していく。それは回復というよりも秘められていた機能を引き出すという手法だ。「失ったものを数えるな、残ったものを最大限に生かせ」―グットマンが残した至言である。

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パラリンピック発祥の地であるストーク・マンデビルスタジアム・グットマンセンター(英・ロンドン) ©PHOTO KISHIMOTO

英国発の国際競技大会へ

スポーツはもう一つ、鍛えるだけではなく楽しみ、レクリエーション的な要素も併せ持つ。楽しみながら体を動かし、体を動かしながらゲームに親しみ、団体競技ともなれば社会性の回復にもつながっていく。はじめはパンチボールやロープクライミング。やがてスヌーカーやダーツ、水泳に広げていき、アーチェリーや卓球、車いすポロや車いすバスケットボールなども加わった。

楽しみは次第に競技性に移行する。それがスポーツ発展の歴史である。1948年7月29日、ストーク・マンデビル病院では16人の車いす選手によるアーチェリー競技の大会が開かれた。グットマンが企画した第1回ストーク・マンデビル競技大会。後にパラリンピックのルーツと言われる大会である。同じ日、ロンドンでは戦後初となる第14回ロンドン・オリンピックの開会式を迎えていた。

ストーク・マンデビル競技大会は1952年の第5回大会にオランダから傷痍(しょうい)軍人が参加し、第1回国際ストーク・マンデビル競技大会となった。参加国はその後も増え、60年には初めて英国の地を離れてローマで開催された。23カ国から400人の選手が参加、アーチェリーに陸上競技、ダーチャリー、スヌーカーに水泳、卓球、そして車いすフェンシングと車いすバスケットボール。8競技57種目が8日間にわたって行われた。同じ年の第17回ローマ・オリンピック閉幕から6日後のことである。

1985年、国際オリンピック委員会(IOC)の容認のもと「パラリンピック」が正式名称となり、60年大会が第1回パラリンピックと追認された。開催から四半世紀、第1回ストーク・マンデビル大会開催から37年の時が刻まれ、開拓者であるグットマン博士は1980年、すでにこの世を去っていた。

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2013年IOC総会でプレゼンするパラリンピアン、佐藤(現在:谷)真海選手) ©PHOTO KISHIMOTO

主な参考図書:『日本のスポーツとオリンピック・パラリンピックの歴史』笹川スポーツ財団編著(2017年)

〈プロフィール〉

佐野慎輔(さの・しんすけ)

日本財団アドバイザー、笹川スポーツ財団理事・上席特別研究員
尚美学園大学スポーツマネジメント学部教授、産経新聞客員論説委員
1954年、富山県生まれ。早大卒。産経新聞シドニー支局長、編集局次長兼運動部長、取締役サンケイスポーツ代表などを歴任。スポーツ記者歴30年、1994年リレハンメル冬季オリンピック以降、オリンピック・パラリンピック取材に関わってきた。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会メディア委員、ラグビーワールドカップ組織委員会顧問などを務めた。現在は日本オリンピックアカデミー理事、早大、立教大非常勤講師などを務める。東京運動記者クラブ会友。最近の著書に『嘉納治五郎』『金栗四三』『中村裕』『田畑政治』『日本オリンピック略史』など、共著には『オリンピック・パラリンピックを学ぶ』『JOAオリンピック小辞典』『スポーツと地域創生』『スポーツ・エクセレンス』など多数。笹川スポーツ財団の『オリンピック・パラリンピック 残しておきたい物語』『オリンピック・パラリンピック 歴史を刻んだ人びと』『オリンピック・パラリンピックのレガシー』『日本のスポーツとオリンピック・パラリンピックの歴史』の企画、執筆を担当した。

連載【オリ・パラ今昔ものがたり】

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