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【オリ・パラ今昔ものがたり】障害者スポーツの先駆者、中村裕を思う

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1964東京パラリンピック宣誓(左が中村裕団長) 写真提供:社会福祉法人 太陽の家

執筆:佐野慎輔

もし彼が生きていたなら、何を思い、どう行動していたろうか。東京は初めて2度目のパラリンピックを開く都市である。開催の意義を考えるにつけ、思いはいつも中村裕(なかむら・ゆたか)に帰っていく。日本の障害者スポーツ推進の先駆け、1964年の東京パラリンピクに尽力した彼の足跡をたどってみたい。

手術よりもスポーツ

中村は1927年、大分県別府市に生まれた。九州大学医学専門学校(現・九州大学医学部)に学び、国立別府病院整形外科科長を務めていた1960年。運命のような出会いが訪れる。当時の日本ではなじみの薄いリハビリテーションの研究のため、厚生省(現・厚生労働省)から欧米に派遣された。2月に日本を出発、米国とカナダの諸施設を視察し英国ロンドン西北部のエイルズベリに着いたのは5月4日。ここに目指すストーク・マンデビル病院がある。

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中村裕博士 ©PHOTO KISHIMOTO

ルードウィッヒ・グットマン博士との出会いは衝撃的なやり取りから始まった。

「きみは日本人か、いままでにも何人もの日本人がやって来たよ。みんながここのやり方をまねしたいと帰っていった。ところがいまだに一人として実行していないようだ」

「ほんとうに素晴らしいものなら、私はまねをする」

「素晴らしいと思うかどうかは、きみの主観だ。事実だけをいえば、ここの脊損(脊髄損傷)患者の85パーセントは、6カ月の治療・訓練で再就職している」

当時の日本では脊損患者が10人いたとして社会復帰できるのは1人か2人。それも何年もかかるため、ほぼ再起不能と見なされていた。6カ月で85パーセントは驚異的な数字と言っていい。中村の猛勉強が始まった。

医師たちに話を聞き、手術を見学、山のような患者のデータに目を通す。やがて日本にはないシステムに気が付く。医師と看護師に理学療法士や作業療法士、ケースワーカーや職業斡旋に携わる人物までが加わり、一体化された治療と訓練。障害者受け入れに向けた職業訓練センターや障害者雇用促進のための法整備…何十年も先の日本の姿があった。

そして、ついに核心に行き着く。スポーツだ。機能回復に向けた治療、訓練の中心にスポーツが置かれている事実である。

下半身不随の患者はベッドに寝かせて置くのではない。早期からスポーツによる機能訓練を受けさせる。卓球、水泳、アーチェリーにバスケットボール…理学療法士が付いてプレーさせ、訓練していく。温泉に浸かり、マッサージするだけの日本とは全く異質なリハビリ方である。データに裏打ちされた実績が有効性を示していた。何より、患者たちの生き生きとした表情に目を奪われた。

グットマンの手法を日本で

「手術よりスポーツ」―グットマン博士の神髄に触れた中村は、帰国後直ちに“宿題”の実践に取り掛かる。しかし同僚の医師たちからは批判ばかり。

「障害者にスポーツさせるなど、良くなりかけたものを悪化させるだけ」

「患者に何かあれば誰が責任をとるのだ」

「医者は手術で患者を治せばいい」

中村はデータをもとに、一人また一人と理解者を増やして国立別府病院でスポーツ療法を実践していく。医師や職員がコーチ役でバスケットボールを投げることから始めた。当初、いぶかし気だった患者たちも次第に体を動かす心地良さに目覚めていった。

「試合がしたい」という声に押されて県庁や市役所、他の療養施設を回っては説得した。しかし思ったような反応はない。障害者は表に出ない、出さない時代である。「障害者を大勢の人の前に出して、サーカスの見世物のようにするつもりか」と批判された。

1961年10月、苦労して第1回大分県身体障害者体育大会を開いた。脊髄損傷者チーム対大分県整形外科医チームの車いすバスケットボールの試合や視覚障害者の相撲が行われた。しかし日本初の障害者スポーツ大会への国や自治体、医学界の関心は低く、取り上げるマスコミもなかった。

この頃、1964年東京オリンピック開催準備を進める日本にグットマン博士から書簡が届いた。オリンピック閉幕後に東京で「国際ストーク・マンデビル競技大会」を開催したいとの要請である。1962年、厚生省元事務次官の葛西嘉資(かさい・よしすけ)を中心に準備委員会が発足し中村は企画委員になった。別府で診察を終えた後、夜行列車で上京。会議に出席した後は役所や障害者団体、企業を回って支援を訴え、また夜行列車で戻って診察や治療にあたる。1964年パラリンピックまで続く生活だ。

この1962年夏、日本は国際ストーク・マンデビル競技大会に初参加している。会場はストーク・マンデビル病院。選手団副団長の中村は愛車を手離して資金をつくり、別府から選手2人を引率した。競泳50m自由形の吉田勝也(よしだ・かつや)が日本の障害者では初の国際大会でのメダル(銅)を獲得。ようやく政府が壮行会を開くなど関心を持ち、マスコミも大きく報じた。帰国した2選手は御所に招かれ、皇太子殿下ご夫妻(今の上皇さま、上皇后さま)と歓談し卓球にも興じた。皇室が障害者スポーツに心を寄せられる始まりだといってもいい。

パラリンピック成功で満足ではない

ここからパラリンピックに向けて加速していく。1963年、正式に東京開催が決定。準備委員会は運営委員会に改組され、委員になった中村は葛西会長を助け八面六臂(はちめんろっぴ)である。

組織づくり、予算編成に関与したかと思えば競技会場の選定や日程などの計画にも関わる。参加選手は車いす。オリンピック選手村を後利用する宿泊施設や通路の整備、改装に意見を述べる。1962年の国際ストーク・マンデビル競技大会に参加した中村の知見が求められた。

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車いすバスケ競技 ©PHOTO KISHIMOTO

医師として国内外の選手たちの健康管理や医学サポート、診療所の開設にも携わった。その傍ら学生ボランティアを含む通訳者の集め方や指導まで相談を受けた。

加えて選手団長を拝命。全国の療養施設や診療所を回ってスポーツができそうな選手を集めて、競技の指導にも関わるのである。

1964年11月8日、東京・代々木の織田フィールドに世界21カ国から378選手が参加、第13回国際ストーク・マンデビル競技大会(後に第2回パラリンピック)の開会式が行われた。織田フィールドは2週間前の10月24日に閉幕した東京オリンピックの選手村の中の練習場。2日間の突貫工事で仮設スタンドを造成し、この日を迎えた。

日本は国立別府病院や国立箱根療養所をはじめ全国の施設から女子選手2人を含む53選手が参加。5日間の会期で車いす9競技が実施される中、卓球男子ダブルスで猪狩靖典(いがり・やすのり)・渡部藤男(わたなべ・ふじお)組が金メダルを獲得するなど金メダル1、銀メダル5、銅メダル4の成績を残した。大分の大会から3年、吉田の銅メダルから2年。短い準備期間を思えば選手たちはよく戦い、関係者の苦労は結実したとい言えよう。

しかし、中村はこれに満足していたわけではなかった。次に来るものは何か。大会期間中、それを考えている。先駆者とはそうしたものかもしれない。笹川良一(ささかわ・りょういち)、陽平(ようへい)と代を継いで日本財団が長くハンセン病制圧活動に心血を注いでいる事実が重なる。障害者支援もまた「これでいい」ということはないのである。次項で触れたい。

主な参考図書:『中村裕伝』(中村裕伝刊行委員会編・1988年)、『太陽の仲間たちよ』(中村裕著・1975年、講談社)

〈プロフィール〉

佐野慎輔(さの・しんすけ)

日本財団アドバイザー、笹川スポーツ財団理事・上席特別研究員
尚美学園大学スポーツマネジメント学部教授、産経新聞客員論説委員
1954年、富山県生まれ。早大卒。産経新聞シドニー支局長、編集局次長兼運動部長、取締役サンケイスポーツ代表などを歴任。スポーツ記者歴30年、1994年リレハンメル冬季オリンピック以降、オリンピック・パラリンピック取材に関わってきた。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会メディア委員、ラグビーワールドカップ組織委員会顧問などを務めた。現在は日本オリンピックアカデミー理事、早大、立教大非常勤講師などを務める。東京運動記者クラブ会友。最近の著書に『嘉納治五郎』『金栗四三』『中村裕』『田畑政治』『日本オリンピック略史』など、共著には『オリンピック・パラリンピックを学ぶ』『JOAオリンピック小辞典』『スポーツと地域創生』『スポーツ・エクセレンス』など多数。笹川スポーツ財団の『オリンピック・パラリンピック 残しておきたい物語』『オリンピック・パラリンピック 歴史を刻んだ人びと』『オリンピック・パラリンピックのレガシー』『日本のスポーツとオリンピック・パラリンピックの歴史』の企画、執筆を担当した。

連載【オリ・パラ今昔ものがたり】

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