社会のために何ができる?が見つかるメディア
【オリ・パラ今昔ものがたり】嘉納治五郎の教えが世界を変える
執筆:佐野慎輔
日本のオリンピック・ムーブメントは1909年、東京高等師範学校(現・筑波大学)校長の嘉納治五郎(かのう・じごろう)がアジア初の国際オリンピック委員会(以下、IOC)委員に就任したことに始まる。
1908年第4回ロンドン大会成功に自信を深めたIOC会長、フランスの男爵ピエール・ド・クーベルタンはオリンピックの輪を欧米以外にも広げるべく、日露戦争(1904-1905年)で大国ロシアを打ち負かした日本に目を付けた。学生時代からの友人である駐日フランス大使、オーギュスト・ジェラールを通して「打って付けの人物」として推薦を受けたのが嘉納である。
嘉納は江戸末期の万延元年(1860年)に摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区)に生まれた。代々酒造業を営む名家であり、父の治郎作は廻船業に進出し幕府御用達となって勝海舟(かつ・かいしゅう)の知遇を得ている。
1881年、東京大学で政治学および理財学を修め、1882年に学習院教授兼教頭に就任。教育者の道を歩み始めた。第五高等中学校(現・熊本大学)、第一高等中学校(現・東京大学)の校長を経て、1893年から東京高師の校長を務めていた。
東京高師では全学参加の水泳実習や長距離走大会などを実施し、体操専修科(現・筑波大学体育学群)を創設。青年層の体位向上、体育・スポーツの普及に力を入れた。
傍ら、小柄で非力な自分を変えるべく、学生時代から学んでいた柔術の天神真楊流(てんじんしんようりゅう)と起倒流(きとうりゅう)の長所を合わせて改良、教育的な価値を加えて「柔道」を考案している。1882年、東京・下谷区北稲荷町(現・台東区東上野)にある永昌寺の一室を借りて講道館を創設。「技」の鍛錬だけではなく「形」も重視し心身を鍛錬、「礼」の大切さを教えている。
また日清戦争後の1896年からは清国(現・中華人民共和国)の留学生を受け入れて教育機関として弘文学院を創設。東京高師と同様のカリキュラムを学ばせるなど、早くから国際交流にも目を向けてもいる。
嘉納の方向性は、クーベルタンの思いに重なる。1909年5月27日、IOCベルリン総会で推薦されて、アジアから初のIOC委員就任、時に嘉納48歳であった。
2人が会うのは、嘉納が三島弥彦(みしま・やひこ)、金栗四三(かなくり・しそう)を率い選手団長としてオリンピックに初参加した1912年第5回ストックホルム大会まで待たねばならない。ただ筑波大学の真田久(さなだ・ひさし)教授によれば「すでにクーベルタンは柔道と嘉納の名を知っていた」という。
クーベルタンもまた教育者。各国の教育事情への知識に加え、「一冊の本の存在があった」と真田教授は話す。ラフカディオ・ハーンの作品集『東の国から・心』である。
ハーンとは日本名・小泉八雲(こいずみ・やくも)。『怪談』で知られたギリシャ生まれの作家は英国、米国を経て1890年に来日した。日本文化に関心を抱き、大学で教鞭を取りながら日本文化を欧米に紹介している。
ハーンは1891年、嘉納が校長を務める熊本の第五高等中学校の英語教師となり、目にしたのが柔道だった。足繁く道場に通って観察を続け、「達人になると、自分の力に決して頼らない…(中略)…敵の力こそ、敵を打ち倒す手段なのだ」と見抜く。そして嘉納から「逆らわずして勝つ」ことこそ柔道の本質だと教わった。
ハーンは柔道から日本人や日本文化の本質を見出し、欧米に紹介した。『東の国から・心』である。柔道と嘉納の名が欧米に刻み込まれていく源流といってもいい。
嘉納の言う柔道の本質に関わるエピソードを紹介したい。学習院教授兼教頭を退いた嘉納は1889年から1年半近く、欧米を視察旅行した。その帰途、日本に向かう船の中で力自慢するロシアの海軍士官を投げ飛ばしたのである。
ひと回り以上も体の大きなロシア人に抱え込まれた嘉納は、相手が左右にねじろうとしたタイミングに合わせて腰投げと背負い投げの中間のような技をかけた。すると巨体が見事に宙を舞い、頭から落ちそうになったところを相手の手を持って支えてけがをさせないよう配慮。船内の“見物人”から大きな拍手を受けたという。
嘉納は旅の記録としていた英文日記にこう記した。「そのおかげで、ロシア人海軍士官と仲良くなり、下船するまでいろいろと語り合った」と。
「柔よく剛を制す」「小よく大を制す」という極意と共に、「相手を思いやる心」こそ柔道の本質である。嘉納はやがて柔道で鍛えた気力、体力を世のため社会のために使い、自分だけ良ければいいとするのではなく互いに助け合い、共に栄えていこうとする『精力善用』『自他共栄』という哲学に高めていく。
嘉納はオリンピックやIOC総会で欧州を訪れるたび、柔道の形や技を披露、『精力善用』『自他共栄』を説いて回った。IOC委員就任を受諾して以来、日本の精神、柔道の心を欧米に伝えたいという意志の現れである。明治の日本人の気概と言い換えてもいい。
その嘉納の思いの普及にひと役かったのが講道館の弟子たち。英国を皮切りにドイツ、フランス、オランダと現地に逗留して柔道を広め、柔道の心を伝えていった。その集大成が1964年東京オリンピックに他ならない。
柔道が初めてオリンピックの公式競技となり、軽量、中量、重量と無差別の4階級が実施された。本家のプライドをかけて全階級制覇をもくろみ、3階級を制した日本に立ちはだかったのが無差別級のオランダの巨漢アントン・ヘーシンクである。
日本人以外では初めて世界選手権を制したヘーシンクは強かった。決勝戦。開始から8分過ぎ、神永昭夫(かみなが・あきお)が仕掛けた体落としをつぶして逆に袈裟(けさ)固めに抑え込み、日本の夢を断った。
ヘーシンク勝利が決まったその時である。喜びのあまり、オランダのコーチ陣が土足で会場の畳に上がろうとした。するとヘーシンクは右手を前に押し出し、彼らを制したのである。「柔道は礼に始まり、礼に終わる。神聖な畳を汚してはならない」―それがヘーシンクの思いだった。
後年、IOC委員になっていたヘーシンクに直接、話を聞いた。「嘉納師範の教え」という言葉と共に、彼は「礼」を語った。そのヘーシンクを見出し、指導したのが講道館7段、道上伯(みちがみ・はく)。道上は技術と共に「礼に始まり、礼に終わる」柔道の心を異国の弟子に伝えたのである。
1964年10月23日、「日本柔道が敗れた」と嘆く人がいた。しかし、これは嘉納の教えが「世界のJUDO」として開花した日でもあった。教えはいまや204カ国地域に及ぶ。
2001年、講道館と全日本柔道連盟は共同プロジェクト「柔道ルネッサンス」を立ち上げた。勝利至上に陥り、ひんしゅくを買うマナーも目立つ現在の柔道界にあって、いま一度、嘉納の教え、柔道の原点である「人間教育」に立ち還ろうとする活動である。子どもたちにも分かりやすく、ごみ拾いの実践が呼びかけられた。
これに呼応するように2006年、1984年ロサンゼルス大会金メダリストで当時国際柔道連盟理事であった山下泰裕(やました・やすひろ)氏が理事長となり、NPO法人「柔道教育ソリダリティ」が発足した。途上国に柔道着や畳、教材を無償で贈り、海外から指導者、選手研修を受け入れ、日本から指導者を派遣した。言うまでもなく『自他共栄』の実践にほかならない。
2019年、山下氏の日本オリンピック委員会(JOC)会長就任に伴いNPO法人は解散したが、精神は教え子で2000年シドニー大会の金メダリスト、全日本代表監督の井上康生(いのうえ・こうせい)氏が創設した特定非営利法人「JUDOs」に引き継がれた。
その「柔道ソリダリティ」の活動に光を当てたのが、日本財団が主催するアスリートによる社会貢献プロジェクト「HEROs」(別ウィンドウで開く)である。サッカーの元日本代表、中田英寿氏の「アスリートの社会貢献が世界を変える」という思いに笹川陽平会長が賛同。全面的に活動を支援し、2017年に発足したプロジェクトである。
2019年のHEROs AWARDは「柔道ソリダリティ」に特別賞を授与した。永年にわたる活動を讃え、嘉納が説いた柔道の心が世界を変える力を持つと評価したのである。
〈プロフィール〉
佐野慎輔(さの・しんすけ)
日本財団アドバイザー、笹川スポーツ財団理事・上席特別研究員
尚美学園大学スポーツマネジメント学部教授、産経新聞客員論説委員
1954年、富山県生まれ。早大卒。産経新聞シドニー支局長、編集局次長兼運動部長、取締役サンケイスポーツ代表などを歴任。スポーツ記者歴30年、1994年リレハンメル冬季オリンピック以降、オリンピック・パラリンピック取材に関わってきた。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会メディア委員、ラグビーワールドカップ組織委員会顧問などを務めた。現在は日本オリンピックアカデミー理事、早大、立教大非常勤講師などを務める。東京運動記者クラブ会友。最近の著書に『嘉納治五郎』『金栗四三』『中村裕』『田畑政治』『日本オリンピック略史』など、共著には『オリンピック・パラリンピックを学ぶ』『JOAオリンピック小辞典』『スポーツと地域創生』『スポーツ・エクセレンス』など多数。笹川スポーツ財団の『オリンピック・パラリンピック 残しておきたい物語』『オリンピック・パラリンピック 歴史を刻んだ人びと』『オリンピック・パラリンピックのレガシー』『日本のスポーツとオリンピック・パラリンピックの歴史』の企画、執筆を担当した。
連載【オリ・パラ今昔ものがたり】
- 第1回 2020年大会延期と「新しい戦争」
- 第2回 過去に学ぶ、歴史を残す
- 第3回 「スペインかぜ」とアントワープ大会
- 第4回 パラリンピックとパラリンピックサポートセンター
- 第5回 障害者スポーツの先駆者、中村裕を思う
- 第6回 1964年パラリンピックのおくりもの
- 第7回 寄付で始まったオリンピック
- 第8回 オリンピックボランティアの始まりは…
- 第9回 日本におけるスポーツボランティア
- 第10回 パラリンピックが未来を拓く
- 第11回 ブラックパワー・サリュート
- 第12回 モハメッド・アリの存在と差別
- 第13回 東京は「臭いまち」だった
- 第14回 むかし、「ビルマ」という国があった…
- 第15回 嘉納治五郎の教えが世界を変える
- 第16回 オリンピックは女性に優しくなかった
- 第17回 「祈りの場」としての東京2020大会
- 第18回 「ARIGATO」は誰に~選手が魂を吹き込んだ2020大会
- 第19回 どう評価すればいいのか?
- 第20回 パラリンピックの現在地と日本財団
- 第21回 コロナ下の東京2020は何を残すのか…
- ※ 掲載情報は記事作成当時のものとなります。