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【オリ・パラ今昔ものがたり】オリンピックは女性に優しくなかった

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オリンピックに女性の参加が初めて認められた第2回パリ大会のゴルフ競技(1900年) ⒸPHOTO KISHIMOTO

執筆:佐野慎輔

東京オリンピック・パラリンピック大会開幕までほぼ5カ月となった2月18日。組織委員会の新会長に橋本聖子(はしもと・せいこ)氏が就任した。

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挨拶する橋本聖子オリンピック・パラリンピック担当大臣(当時、2020年) ⒸPHOTO KISHIMOTO

「森発言」を奇貨として

この後に及んで五輪パラリンピック担当大臣から“横滑り”起用の狙いは、「男女平等」に関わる森喜朗(もり・よしろう)前会長の不適切な発言に端を発した騒動の沈静化。そして、新型コロナウイルス対策など山積みする問題に1日でも早く着手するためである。

橋本氏の政治の師は森氏に他ならない。それをことさら問題視、かつてのスキャンダルをあげつらうメディアもある。しかし国際オリンピック委員会(IOC)や海外メディアも含めて、冬と夏合わせて7度五輪出場した橋本氏の経験、女性活躍担当大臣として男女共同参画に尽力してきた実績に期待する声は少なくない。テニスの大坂(おおさか)なおみ選手なども、「前に進んだ」と歓迎の意を示した。橋本新会長はこうした期待に応えなければならない。

日本は、「森発言」以前から男女平等度合いを示す「世界経済フォーラム」のジェンダー・ギャップ指数の順位が152カ国中121位と低い。国際的には、女性の社会参画が遅れた国とみなされて久しい。今回の騒動を奇貨として、男女平等の意味や意義を正確に理解する社会に変えていかなければ、それこそ世界から見放されてしまうだろう。

すぐに小谷美可子(こたに・みかこ)氏をチーフとする「ジェンダー平等推進チーム」を発足したことは素直に評価していい。次は開催に向け、いかに変革を進めていくか。今がその岐路である。

クーベルタンは「女性蔑視」

歴史的にみれば、オリンピックは決して女性に優しい運動ではなかった。

1896年第1回アテネ大会は、女性の参加は認められていない。創始者のフランス人貴族ピエール・ド・クーベルタンは古代オリンピックの男子選手の肉体美の躍動を理想とし、古代に倣って女性禁制としたのである。4年後の第2回パリ大会で出場が許されたが、テニスとゴルフに限られた。IOCによれば、参加1,066選手のうち、女子選手はわずか12人であったという。

19世紀末、上流階級の女性たちの間では乗馬やテニス、ゴルフ、スキー、スケートなどスポーツに親しむ風潮が生まれていた。ただ競技としてではなく、余暇の楽しみであり、限られた層が実践していたに過ぎない。

面白いことに、クーベルタンの母アガト・ガブリエルはスポーツを好み、フェンシングは相当の腕前だったという。またフランス北部ミルヴィルにある居城の前庭で、フランス初のローン(芝)テニスを楽しんでもいた。四半世紀前、クーベルタン家の家督を継いだ故ジョフロワ・ド・ナヴァセルをミルヴィルに訪ねたときに聞いた話である。

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クーベルタン男爵の家督を継いだナヴァセル氏(写真右)と筆者。フランスのミルヴィルにて(1997年)

クーベルタンは女性のスポーツ参加をこう決めつけた。「女性がスポーツをしている姿は優雅でも面白くもなく、見るに堪えない。女性の主たる役割は(男性の)勝者に冠を授けることである」と。現在ならば、「女性差別主義者」と誹(そし)られていたに違いない。

「母体の保護」が論じられ、「女性の参加は好奇な目にさらす」と危惧された時代背景があったことを付記しておきたい。特に後者については、いまなおフィギュアスケートや新体操などで卑猥(ひわい)なカメラアングルが問題視される。「美人選手」といった取り上げ方をしてきたスポーツメディアのあり方も改められて然るべきだ。

パリ大会で初めて参加を果たした女子選手たちは長そでの上着とロングスカート。肌の露出が極力抑えられた。参加競技は第3回セントルイス大会ではアーチェリー、第4回ロンドンではアーチェリー、テニスに加えてフィギュアスケート。そして第5回ストックホルム大会では競泳、飛び込みが加わった。競泳では女性の活躍が奨励される一方、肌の露出に細かな規則が設けられた。大会を組織、運営する男性が「女性らしい」と見なした競技に限られたといってもいい。

アリス・ミリアを忘れてはならない

こうした男性社会の頑迷(がんめい)さに異を唱えたのがフランス人女性のアリス・ミリアである。元はボートの選手、女性スポーツを推奨する活動に力を注いだ。背景には第1次世界大戦での女性の参画があったとされる。1919年フランス女子スポーツクラブ連盟(FSFSF)会長に就任すると、IOCに手紙を出し、IOCへの女性参加と1920年アントワープ大会での女子の参加競技種目の増加を訴えた。

アントワープでは馬術とセーリングで新たに門戸が開かれた。しかしIOCへの参画と切望した陸上競技への参加は認められなかった。

そこで1921年に国際女子スポーツ連盟(FSFI)を組織したミリアは、翌1922年パリで「第1回女子オリンピック」を開催した。わずか1日だけの大会だったが、5カ国から77選手が陸上競技に参加、約2万人の観客を集めた。

4年後もスウェーデンのエーテボリで第2回大会を開催。このとき日本からただ一人参加したのが人見絹枝(ひとみ・きぬえ)である。

日本の女子体育教育の先駆者、二階堂(にかいどう)トクヨが創設した二階堂体育塾(現・日本女子体育大学)研修生を経て大阪毎日新聞運動科に勤務する人見は、走幅跳で5メートル50センチの世界記録を樹立して優勝。他にも立幅跳に優勝、円盤投げは2位、100ヤード走3位となり、ミリアから直接、特別賞を授与された。

この大会直後、クーベルタンからIOC会長を引き継いでいたアンリ・ド・バイエ=ラツールとの話し合いにより1928年第9回アムステルダム大会から陸上競技に女子の参加が決まった。日本人女性として初出場した人見が800メートルで2位、日本女子選手初のメダルを獲得したオリンピックである。

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第9回アムステルダム大会陸上女子800mで日本女子初のメダル(銀)を獲得した人見絹枝(写真左。1928年) ⒸPHOTO KISHIMOTO

ただし5種目に限定され、FSFIは国際陸上競技連盟(IAAF)の傘下に組み込まれた。ミリアは1930年プラハ、1934年ロンドンと女子国際競技大会を開催したが「女子オリンピック」の名称は使用できなくなっていた。そして彼女が体を壊し、同時に組織は消滅した。

ひとりの女性の活動は確かに女性スポーツの歴史を変えた。日本でも二階堂や人見の存在が女子スポーツの地位を向上させた。しかし、女性の活躍が男性社会、とりわけ支配階級が力を持つIOCの厚い壁に跳ね返されたこともまた事実であった。

「ブライトン宣言」を遵守せよ

女子選手が参加選手の1割を超えたのは、ようやく第2次大戦後の1952年第15回ヘルシンキ大会。1964年第18回東京大会は13.8パーセント、20パーセント超えは1976年第21回モントリオール大会まで待たねばならなかった。

IOCの女性委員誕生は1981年。ベネズエラの元馬術代表フロール・イザヴァ・フォンセ氏とフィンランドの元陸上中距離選手、ピロヨ・ハグマン氏が同時に就任した。フォンセ委員は1990年には女性初のIOC理事、その後名誉委員となったが2020年、亡くなった。オリンピック3大会出場したハグマン委員への期待は大きかったが、1998年暮に発覚したソルトレークシティの招致スキャンダルに連座、委員を辞任せざるを得なかった。

IOCは1995年、その前年に第1回世界女性スポーツ会議が制定した「ブライトン宣言」に署名し、スポーツにおけるあらゆる分野での女性参画推進に同意。1996年には「第1回IOC世界女性スポーツ会議」を開催し、その後オリンピック開催ごとに会議を主催する。現在の女性委員はアニタ・デフランツ副会長(アメリカ)ら理事5人を含み、委員数の37.5パーセントまで比率を高めてきた。

2014年制定の中長期基本指針「アジェンダ2020」はオリンピック大会の参加比率を50:50とする達成目標を掲げた。女子ボクシングを容認、男女混成種目の実施し2016年リオデジャネイロ大会では女子選手比率が45.6パーセントにまで伸びた。2020東京は48.7パーセントとなる見通しだ。

また橋本氏は、2004年第28回アテネ大会のヤナ・アンゲロプロス・ダスカラキ氏に次ぎ史上2人目の組織委員会女性会長となった。東京に、国際スポーツ界の目が向く理由でもある。

「1万人女性意識調査」を役立てて

日本財団では2020年から「1万人女性意識調査」をスタートさせた。回ごとにテーマを設定。全国1万人を対象に男女雇用機会均等法や女性活躍推進法の施行に伴う女性の社会進出に際し、どのような認識を抱いているのか、あるいは現場での状況や障害の有無、現実の社会をどうみるかなど、さまざまな角度から調査。今後の女性活躍につなげていくことを目的にしている。

今回、図らずもオリンピック・パラリンピックの舞台で注目された「男女の平等」「多様性と調和」の実現にいかに寄与していくか。こちらも興味深い。

主な参考図書:『近代オリンピック100年の歩み』(日本オリンピック委員会・ベースボールマガジン社)、『オリンピック全史』(デイビッド・ゴールドブラット著・原書房)、『オリンピック全大会』(武田薫著・朝日新聞社)、『IOC~オリンピックを動かす巨大組織』(猪谷千春著・新潮社)、『20世紀特派員4-大観衆がやってきた』(佐野慎輔著・産経新聞社)など

参考サイト:国際オリンピック委員会、順天堂大学女性スポーツ研究会、笹川スポーツ財団―スポーツ歴史と検証

新聞:朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日本経済新聞、産経新聞

〈プロフィール〉

佐野慎輔(さの・しんすけ)

日本財団アドバイザー、笹川スポーツ財団理事・上席特別研究員

尚美学園大学スポーツマネジメント学部教授、産経新聞客員論説委員

1954年、富山県生まれ。早大卒。産経新聞シドニー支局長、編集局次長兼運動部長、取締役サンケイスポーツ代表などを歴任。スポーツ記者歴30年、1994年リレハンメル冬季オリンピック以降、オリンピック・パラリンピック取材に関わってきた。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会メディア委員、ラグビーワールドカップ組織委員会顧問などを務めた。現在は日本オリンピックアカデミー理事、早大、立教大非常勤講師などを務める。東京運動記者クラブ会友。最近の著書に『嘉納治五郎』『金栗四三』『中村裕』『田畑政治』『日本オリンピック略史』など、共著には『オリンピック・パラリンピックを学ぶ』『JOAオリンピック小辞典』『スポーツと地域創生』『スポーツ・エクセレンス』など多数。笹川スポーツ財団の『オリンピック・パラリンピック 残しておきたい物語』『オリンピック・パラリンピック 歴史を刻んだ人びと』『オリンピック・パラリンピックのレガシー』『日本のスポーツとオリンピック・パラリンピックの歴史』の企画、執筆を担当した。

連載【オリ・パラ今昔ものがたり】

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