日本財団ジャーナル

【オリ・パラ今昔ものがたり】第6回 1964年パラリンピックのおくりもの

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第1回フェスピック日本大会開会式(1975年/大分) 写真提供:社会福祉法人 太陽の家

執筆:佐野慎輔

1964年の東京パラリンピックは2部制で実施された。いや、正確には英国ストーク・マンデビル病院で1948年から行われていたストーク・マンデビル競技大会に端を発し、1952年から国際化した「国際ストーク・マンデビル競技大会」を11月8日から5日間の日程で開催。その後、13、14の両日行われた国内大会を第2部としたのである。

パラリンピックの原型が生まれた

なぜ、こうした編成になったのか?

国際大会の参加は脊髄損傷による対麻痺、車いすを使う下半身麻痺の選手に限られていた。日本側はこれに対し「全ての障害者が等しく参加できる大会」を望んだ。大会開催に尽力した中村裕(なかむら・ゆたか)もまた、「人にはいろいろな障害がある。全ての身体障害者に機会は与えられるべきだ」と主張した。しかし、創始者ルードウィッヒ・グットマン博士の同意は得られなかった。

「車いす以外の障害者スポーツは整備されていない」―主催の国際ストーク・マンデビル競技委員会の見解である。積年のプライドかもしれない。ただ日本側には事情もあった。行政の了承を取り付け、広く支援を募るためには「車いすだけ」とはいかない。手足の切断や視覚障害など幅広い身体障害者が集うスポーツ大会として実施された背景である。国内大会だが、西ドイツ選手団が参加。パラリンピックの原型が生まれたといってもいい。

「芽」を育んだのは中村である。中村は障害者のスポーツ参加が遅れていた東南アジアや南太平洋の島嶼国(とうしょこく)を誘い、通称フェスピック、極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会を創設。1975年に大分市と別府市で第1回を開催した。1964年大会の理想を実現するべく、車いすの対麻痺者に限らず四肢の麻痺、視覚障害に手足の切断、脳性麻痺など可能な限りの障害者に門戸を開いた。18カ国から974選手が参加した大会は後にアジア・パラリンピック競技大会に発展していく。そして記念すべきこの大会にはグットマン博士も招かれて出席。選手たちの姿を見て、重い扉を開ける決意をしたのだった。

1976年のトロント大会から手足切断者と視覚障害者が参加、1980年アーネム大会で脳性麻痺、1984年ニューヨーク大会では現在のカテゴリー全ての出場が認められた。

成功と物足りなさと

パラリンピックとは平行、並列を指す「パラレル」とオリンピックを組み合わせて「もう一つのオリンピック」を意味する。

言葉としてのパラリンピックが初めて登場したのが1964年東京大会。兼ねて関係者の間では対麻痺者(パラプレジア)のオリンピックとして「パラプレジック・オリンピック」と呼ばれていた。略して「パラリンピック」が大会名に掲げられた。ただ、意味は対麻痺の方。「もう一つのオリンピック」に統一されたのが1985年で、今日に至る。東京パラリンピックはそんな大会でもあった。

中村裕は一方で手応えを感じながら、しかし物足りなさを感じていた。日本と欧米の選手との差である。体格、体力の格差、競技力、選手を支える車いすなど用具の技術…全てに日本は劣ったが、中でも社会性に目が行くのである。

選手村には集会室が設けられていた。酒や食事が用意され、音楽などのイベントを通して交流を深めていく配慮だ。毎晩のように歌い、踊り、陽気な声が聞こえてくる。中村がのぞくと、しかしそこに日本の選手たちの姿はなかった。欧米の選手たちの中には外出届をもらい新宿や渋谷でショッピングを楽しみ、商談までやってのける強者までいるのに自室を出ない。個人差ではない、生活環境から導かれる違いとしか考えられなかった。

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パラリンピック東京大会選手村でくつろぐ外国選手。取り囲んでいるのはボランティアの学生(1964年) 写真提供:社会福祉法人 太陽の家

中村は期間中、選手たちの生活環境調査を実施した。外国人選手の大半は職業を持ち、神父や弁護士、会計士、秘書にセールスマン、時計職人など障害のない人と同じような営みを有している。日本人53選手中、職業を持つものはわずか5人。大半が施設や療養所生活を送っていたのである。

「太陽の家」というモデル

「障害のあるものこそ、職業を持たねばならない」―中村の信念に従い活動していく。慈善にすがるのではない、障害者が自立することこそ大事だ。職業を持たねばならない。社会復帰のための施設を造ろう。渡米して障害者の働く環境、支援施設を見学して構想を練り、作家の水上勉(みずかみ・つとむ)や評論家の秋山(あきやま)ちえ子らの支援も得て資金を調達。別府に社会福祉法人「太陽の家」を創設したのはパラリンピックの翌年、1965年10月5日である。

ここでは障害者が仕事を持ち、給料を得て生活する。シャープの創業者、早川徳次(はやかわ・とくじ)の協力で仕事の枠を広げ、オムロンの立石一真(たていし・かずま)、ソニーの井深大(いぶか・まさる)、ホンダの本田宗一郎(ほんだ・そういちろう)といった日本経済史に名を遺す創業者たちの支援を得て「オムロン太陽」「ソニー太陽」「ホンダ太陽」など共同出資の会社を創業。障害者の社会復帰を進めていった。障害者たちが納税者となる。当たり前の姿がここにある。

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「太陽の家 (別府工場)」の就労継続支援で働く人たち 写真提供:社会福祉法人 太陽の家

「太陽の家」はいま、別府市のJR日豊本線・亀川駅近くの約2万6,000平方メートルの土地に「まち」を形づくる。事務局や在籍者住宅の他、共同出資会社や協力企業の事務所、工場などが置かれ、職業訓練も兼ねた作業所に体育館、プールなどのスポーツ施設、銀行や郵便局、スーパーマーケットなども備え、周囲の住宅とごく自然になじんでいる。

『No Charity,but a Chance(保護よりも機会を)』―中村の活動を貫く信念の結実である。その始まりは1964年東京パラリンピックであった。2020東京大会は何を残していくのか? その答えをここで見つけることができると思う。

主な参考図書:『中村裕伝』(中村裕伝刊行委員会編・1988年)、『太陽の仲間たちよ』(中村裕著・1975年、講談社)、『日本のパラリンピックの父 中村裕』(佐野慎輔著・2019年、小峰書店)

〈プロフィール〉

佐野慎輔(さの・しんすけ)

日本財団アドバイザー、笹川スポーツ財団理事・上席特別研究員
尚美学園大学スポーツマネジメント学部教授、産経新聞客員論説委員
1954年、富山県生まれ。早大卒。産経新聞シドニー支局長、編集局次長兼運動部長、取締役サンケイスポーツ代表などを歴任。スポーツ記者歴30年、1994年リレハンメル冬季オリンピック以降、オリンピック・パラリンピック取材に関わってきた。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会メディア委員、ラグビーワールドカップ組織委員会顧問などを務めた。現在は日本オリンピックアカデミー理事、早大、立教大非常勤講師などを務める。東京運動記者クラブ会友。最近の著書に『嘉納治五郎』『金栗四三』『中村裕』『田畑政治』『日本オリンピック略史』など、共著には『オリンピック・パラリンピックを学ぶ』『JOAオリンピック小辞典』『スポーツと地域創生』『スポーツ・エクセレンス』など多数。笹川スポーツ財団の『オリンピック・パラリンピック 残しておきたい物語』『オリンピック・パラリンピック 歴史を刻んだ人びと』『オリンピック・パラリンピックのレガシー』『日本のスポーツとオリンピック・パラリンピックの歴史』の企画、執筆を担当した。

連載【オリ・パラ今昔ものがたり】

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